「猛烈に愛されたい!」その前に…、他人を愛せますか?許せますか?

恋愛経験の少ない人や、逆に恋愛経験がいたって豊富でも、「束縛されるような愛」を理想とする人はいます。

周囲の異性に脇目も振らず、自分だけをまっすぐに愛してくれる恋人というのは、自分という存在価値を高めてくれるような気がするのかもしれませんが、現実問題としてはどうでしょう?

相手のことを好きだし、大切にしたいと思う。ましてや、他の異性に脇目をふる、なんてことは絶対にしないし、したいとも思わないけれど、趣味に没頭したり、友人たちとの時間は確保したい。

相手が、そうした時間も自分のことだけ考えて欲しい、自分のためにつかって欲しい、と言ってきたら…。

まして、やむを得ない残業中にまで、どうして連絡をくれないんだ、と恨み節だったりしたら…。

交際相手の本気度が足りない気がする、浮気しているようには見えないけど、自分といる時間以外も楽しんでいて充実している様子だ…。自分には相手しかいないのに…。

交際相手に対し、そのような不満をためている人も少なくないようですが、相手への本気度が束縛のような形であらわれるという思い込みは捨ててください。

束縛系の愛が、強い愛だと思うのはおおきな勘違いです。相手に対するつよい思いをこれでもか、と見せつけるようなやり方をするのは、むしろ、「自己愛」のつよい人間と思った方がいいでしょう。

本気の愛の証明こそが「結婚」などという、陳腐なことは言いませんが、もし、このままずっと交際をつづけようとしていて、今すぐにか、いずれかは分からないまでも「一緒に暮らしたい」というような希望を持っていたとします。

そのような相手が、自分のスケジュールを逐一確認し、仕事しているときにまで、連絡をしてこないと不満を述べるようだったら、生活のベースとなるはずの収入を得ることすら困難になりそうですし、窮屈で息がつまるような同居生活になってしまいそうです。

自分も猛烈に相手を愛するから、相手からもそのように思われて構わない、むしろ思われたい、望むところだ、などという人もいるかもしれません。

しかし、子どもが生まれれば。女性の関心はご主人より子どもの方にうつってしまうかもしれないし、長く仕事つづけていれば、やがて男女の区別なく、責任を任されるような機会も増え、仕事が面白く、収入が増えて、あらたな出会いや、趣味を見つけることもあるかもしれません。

そうした、さまざまな経験が、あなたという人間の視野を広げ、さらなる魅力を増していくことに繋がるに違いないのに、そうしたことを否定して、「自分だけを見ていて。自分だけを愛して」という相手に束縛されていたら、この先、お互いに、なんの成長も望まれません。

ただ、行き詰まる惰性的な生活がつづいていくだけです。どちらかに嫌気がさして、別れを切り出したとき、片一方がそれを受け入れなかったら…。そうした悲劇が古今東西、いくつもいくつも繰り返されてきました。

「モテ」るひとというのは、たくさんの世界を持っているものです。

真実の愛とは、相手を許し、認めること。相手を取り巻く環境すべてをひっくるめて愛するということです。

閉塞状況で、相手のことにしか関心がない。まして、相手が自分の思い通りに動くことしかか認められない、というような状況は、束縛系の愛というより、ただの支配でしかありません。

支配とは自己愛に由来するもので、相手を本当に愛しているわけではないのです。