好きなものを増やすより、嫌いなものを自覚することがモテへの近道

モテない、恋人がいないという人に対し、「好き嫌いばかり言って、相手に選り好みなんかしているから、モテないのだ」というようなアドバイスをする人がいます。

交際相手のいない人を哀れに思い、ひとつ相手を紹介してやろう、などと思っている人は、自身が紹介した人に対し、あれこれ難癖や注文をつけてこられたら、「せっかく紹介してやったのに」と面白くない気分になるかもしれません。

「ルックスや家柄が優れているわけでもなく、たいしたスキルを持っているわけでもないのに、あんな人はイヤだ、こんな人はダメだ、なんていうのはワガママだし、分不相応だ」…等々。

たしかに、好き嫌いを言わなければ、つまり「誰でもいい。自分とつきあってくれる人なら」とあれこれ選り好みせず、紹介された人ともれなく交際してみる、くらいの意気込みでいれば、恋のチャンスは結構多く巡ってくるかもしれません。

しかし、「好き嫌いはしないから」「誰でもいい」なんて態度、ちょっと考えれば、これほど相手にとって失礼なことはありません。

また、こんなことを言う人もよくいますよね。「あの人が悪口をいうところを聞いたことがない。本当に人間のできた、よい人だ」と。

一見もっともらしく聞こえますし、日頃、人の悪口ばかり言っている人などは、それを聞いて居心地の悪い思いをするに違いありません。

しかし、私はこんなふうに考えます。悪口を言うことは一切なく、また、身近な人の口から誰かの悪口を聞いたとき、「あの人はそんな悪い人じゃないよ。そんなこというもんじゃない」と即座に窘めてくるような人。

もしかしたら独善的で共感性の欠如した人物なのかも知れないし、あるいは、だれからも嫌われたくないという保身ゆえに、我が身を防御しているだけかもしれません。

そのような、ある種中二病的(笑)な、悪のススメみたいなことを言ってばかりいると、「世の中、聖人と呼ばれる人は〜」「成功した大リーガーは〜」「大物芸能人は〜」「世間的に立派と思われる人々は、けっして他人の悪口を言わないものだ」などと言われてしまいそうです。

だから、私たちもそういった立派な人々にならって、他人の悪口を言わないようにした方がいいのだ、と?

しかし、私たちはそんな聖人君子などではなく、所詮一般市民なのですから、それらの「立派な方」にならう必要などありません。

いいひとぶったり、または、女性は女性らしく、男性は男性らしく異性の前で振る舞えばモテる、などと短絡的に考える人も少なくないようです。

表面上の「モテ」に限って言えば、そういう部分もなきにしもあらず、かもしれませんが、本質的なモテというのは、そうやって装っていれば得られるというものではありません。

男性・女性に限らず、人間的にみて魅力的な人物であることが大切です。

人間的に魅力がある、というのはどういうことか?それは「いろんなことに意識的」ということだと思うのです。つまり、誰かに左右されない自分なりの意見を持っているということ。

他人にふりまわされない、自分なりの意見を持つことができる、というのは、自分なりの価値基準・判断(ものさし)があり、それに自信がある、ということ。

その「自分のものさし」に自信を持つために必要なのが、「ものごとの好き嫌いの感覚」に意識的になることなんです。

つまり、好き嫌いはしていい。嫌いな人はいていい。好きなものを増やせ、という人がいれば、無理になにかを好きになろうと努力するより、嫌いなことに自覚的になる方が、よっぽどみずからの感性は磨かれるものなのです。