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ウィークポイントは、すべてチャームポイントに化ける可能性アリ!

「自分は欠点だらけだ。長所がいっぱいある人が羨ましい」と考える人は少なくないと思います。

しかし、欠点がある、自分でも欠点を理解しているというのは、ある意味長所でもあるんです。

そう、欠点、すなわちウィークポイントというのは、ほぼ例外なくチャームポイント(長所)に化ける可能性があるんです!

では、今からその理由をお伝えしていきましょう。

心理学の現場でつかわれる「リフレーミング」というコトバをご存じですか?

「リフレーミング」とは、フレーム(枠組み)から自由になってみる、発想転換をしてみる、というような意味合いを持ちます。

簡単な例では、「ものごとの言い換え」というものがあります。

たとえば、他人から「きみって無神経だね」と面と向かって言われたら、いくらなんでも傷つきますよね。そう、無神経というコトバは、ネガティブ、つまり否定的なコトバです。

リフレーミングでは、このネガティブなコトバをポジティブに置き換えてみる、といったようなことを実践します。

無神経、というコトバを否定的でなく、つまり肯定的にとらえようとしたら、どうなるでしょうか?

無神経というのは、人を思いやらず、直球な物言いをし、相手を傷つけてしまうようなことを言いますよね。

では、こんなふうに、言い換えてみたらどうでしょう。

「はっきりもの申してくれるから気持ちいい」「自分では思いもよらない直球のコトバに目が覚めた思いだよ」

無神経な言われようにキズついた、という人も、自分の感情をこのように言い換えてみたら、少し気分がよくなりますよね?

これがリフレーミングの効果です。

つまり、このように、物事の枠組みから自由になると、ネガティブワードをポジティブワードに置き換えることも可能になる。それによって、相手との理解も深まりそうです。

このリフレーミングの手法を、あなたの欠点にも次々あてはめていってみましょう。

「背が低い」→小柄でチャーミング。かわいらしい。

「太っている」→ふくよかだ。健康的だ。

「学歴が低い」→学歴にこだわらない。人柄が良い。親しみやすい。

「不細工である」→個性的な顔立ちだ。

「オタクである」→専門性がある。趣味人である。

「料理が下手」→おいしい食べ物屋さんを知っている。

「音痴」→おおらかに、楽しく歌える。

「どんくさい」→おっとりしている。

こうやって、例を挙げていくと、所詮ものは言い様なのだ、というのがつくづく分かりますね。

ひとつ、ふたつ、際だった美点があるような人は、そのひとつ、ふたつのアピールをしたら、それでもう、紹介は終わってしまうかもしれない。

そのひとつ、ふたつの美点に対し、相手の食指がそれほど動かなかったら、それ以上関係は深まっていかない。

しかし、欠点の多い人は。その欠点ひとつひとつをポジティブワードに言い換えしていくだけで、なんだか、「もっと知りたい」と思うような興味深いプロフィールができあがるような気がしませんか。

自分自身や、周囲の人が気づいて指摘するような、チャームポイント、ウィークポイントはまだまだほんの一部分にしか過ぎないかも知れません。

自分にも相手にも、気づかれていない欠点や長所はまだまだたくさん眠っている!

私たちはまだまだもっと魅力的になれる。いくつになっても、何度も「モテ期」はやってくるんです。周囲の人より、モテを少し意識するだけで。

あざとい自己アピールより多彩な表現力を味方に他者を惹きつける!

他人に奉仕することが好きな人というのは案外少なくないものです。ホスピタリティの精神がある、と捉える向きもありますが、中には自己満足の極みで、周囲を辟易させてしまう人もいます。

他者への気遣いはさりげなく遂行されてこそ、その真価を発揮するもの。「私いま、これをやってます、あなたのためにわざわざやってあげてます」という自己アピールはただただ鬱陶しいだけです。

どんなに細々と立ち働いて他人に尽くしても、「この人はどうせ、褒められたくて、認められたくてやってるんだわ」「ただの自己満足だ」と周囲から見透かされ、疎んじられてしまっては元も子もありません。

「金銭的な見返りを一切求めずにやってくれるなら、ありがたいじゃない?褒められたいくらい、大目に見てあげましょう」という心の広い人もいます。

しかし、金銭を求めなければなにをやってもよい、というものでもありません。必要以上のサービスを、これでもか、と相手に押しつけ、相手がうんざりしているところへ、「やってあげてる」の激しい自己アピール。

そして、それに対し相手が十分なねぎらいのコトバをかけてくれなかった、とむくれたり、自己嫌悪に陥ったりして、なおかつまたその自分を激しくアピール。むしろ周囲に気を遣わせてしまったりするのです。

それでは他人への奉仕どころか、周囲も持て余す、ただの困ったちゃんに過ぎませんよね。

本当にかゆいところに手が届くようなサービスというのは、そのサービスを受けた当人にすら、誰がとりはからってくれたものか、まったく気づかれないことだってある。

相手から感謝を伝えられることがなくても、相手が喜んでいるなら嬉しい、それでいい、と考えられることこそが、本来なら、真のホスピタリティなのです。

しかし、単なる「やりたがり」「認められたがり」の人はそうした「人のために真心を尽くす」態度とは対局にあります。

自分がさりげなくしてあげたことで相手が喜んでくれたことを、物陰からこっそり確認するだけでは納得いかないし、満足いかない。本人からは感謝して欲しいし、周囲からも認めて欲しい。

だから、必要以上に目立とうとしたり、爪痕を残したがり、「自分が他人にたいしてしてあげたこと」をことさら大きな声で吹聴する傾向にあります。

そういったあざといアピールに弱い、騙されやすい、ひっかかりやすい人間というのも確かに存在します。

しかし、その効果は案外長つづきしません。飽きられてしまうのも早いものなのです。

他人に奉仕したい気持ち自体は、本来尊いものなのですから、せめて、「金銭的な見返りを一切求めずにやってくれるなら、ありがたい」くらいに周囲に思ってらえるよう、努力してみましょう。

褒められたい、認められたい気持ちをもつことは仕方ない。所詮聖人君子ではなく、ただのできそこないの人間なのですから。

しかし、あざとい自己アピールで、愛想をつかされてしまうのは。つまらない。

そこで。あなたにぜひ身につけて欲しいのが、多彩な表現力です。

ウザい自己アピールはいったん忘れて、たとえば、サービスを受けて喜んでいる人と一緒に喜ぶこと。ひととき、その感情を共有すること。

または、何かに困っている人がいたら、すぐに対処してあげるのではなく、その困り事にじっくり耳を傾け、「どうしたらいいでしょうね」と一緒に困ってみるなど…。

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まどろっこしいし、無駄なような気がするかも知れませんが、この方がはるかに好感が持てますし、あなたを魅力的に見せること、間違いナシです!

好きなものを増やすより、嫌いなものを自覚することがモテへの近道

モテない、恋人がいないという人に対し、「好き嫌いばかり言って、相手に選り好みなんかしているから、モテないのだ」というようなアドバイスをする人がいます。

交際相手のいない人を哀れに思い、ひとつ相手を紹介してやろう、などと思っている人は、自身が紹介した人に対し、あれこれ難癖や注文をつけてこられたら、「せっかく紹介してやったのに」と面白くない気分になるかもしれません。

「ルックスや家柄が優れているわけでもなく、たいしたスキルを持っているわけでもないのに、あんな人はイヤだ、こんな人はダメだ、なんていうのはワガママだし、分不相応だ」…等々。

たしかに、好き嫌いを言わなければ、つまり「誰でもいい。自分とつきあってくれる人なら」とあれこれ選り好みせず、紹介された人ともれなく交際してみる、くらいの意気込みでいれば、恋のチャンスは結構多く巡ってくるかもしれません。

しかし、「好き嫌いはしないから」「誰でもいい」なんて態度、ちょっと考えれば、これほど相手にとって失礼なことはありません。

また、こんなことを言う人もよくいますよね。「あの人が悪口をいうところを聞いたことがない。本当に人間のできた、よい人だ」と。

一見もっともらしく聞こえますし、日頃、人の悪口ばかり言っている人などは、それを聞いて居心地の悪い思いをするに違いありません。

しかし、私はこんなふうに考えます。悪口を言うことは一切なく、また、身近な人の口から誰かの悪口を聞いたとき、「あの人はそんな悪い人じゃないよ。そんなこというもんじゃない」と即座に窘めてくるような人。

もしかしたら独善的で共感性の欠如した人物なのかも知れないし、あるいは、だれからも嫌われたくないという保身ゆえに、我が身を防御しているだけかもしれません。

そのような、ある種中二病的(笑)な、悪のススメみたいなことを言ってばかりいると、「世の中、聖人と呼ばれる人は〜」「成功した大リーガーは〜」「大物芸能人は〜」「世間的に立派と思われる人々は、けっして他人の悪口を言わないものだ」などと言われてしまいそうです。

だから、私たちもそういった立派な人々にならって、他人の悪口を言わないようにした方がいいのだ、と?

しかし、私たちはそんな聖人君子などではなく、所詮一般市民なのですから、それらの「立派な方」にならう必要などありません。

いいひとぶったり、または、女性は女性らしく、男性は男性らしく異性の前で振る舞えばモテる、などと短絡的に考える人も少なくないようです。

表面上の「モテ」に限って言えば、そういう部分もなきにしもあらず、かもしれませんが、本質的なモテというのは、そうやって装っていれば得られるというものではありません。

男性・女性に限らず、人間的にみて魅力的な人物であることが大切です。

人間的に魅力がある、というのはどういうことか?それは「いろんなことに意識的」ということだと思うのです。つまり、誰かに左右されない自分なりの意見を持っているということ。

他人にふりまわされない、自分なりの意見を持つことができる、というのは、自分なりの価値基準・判断(ものさし)があり、それに自信がある、ということ。

その「自分のものさし」に自信を持つために必要なのが、「ものごとの好き嫌いの感覚」に意識的になることなんです。

つまり、好き嫌いはしていい。嫌いな人はいていい。好きなものを増やせ、という人がいれば、無理になにかを好きになろうと努力するより、嫌いなことに自覚的になる方が、よっぽどみずからの感性は磨かれるものなのです。

モテているようで実はちっともモテていない残念な人から学べること!

夫から不倫されてしまった女性のことを昨今は、「サレ妻」と呼んでいるのだそうです。

私も知り合いに何人かの「サレ妻」がいるのですが、彼女たちはたいてい女性としての魅力にあふれ、生涯の伴侶であるそのご主人にもよく尽くされていたりします。

そして、彼女たちのコトバに共通するのが、「夫は自分がモテると勘違いしている」というものです。「本当はモテないくせに、たまたまちやほやされて、いい気になってしまった挙げ句不倫した」という認識なのです。

彼女たち「サレ妻」からすれば、彼女たちの浮気がバレてしまった彼女たちのご主人は、「モテているようでちっともモテていない残念な人」ということになるのでしょうか。

さて、今回はそのように、モテてるとご自身は勘違いされているかもしれないけど、本当はモテているわけじゃないという、残念な人から学べるだけ、学んでみたいと思います。

かつて結婚経験がある、ということは、一度はモテた経験があるということです。

「お互いの中に恋愛感情なんかちっともありません。実は家同士の結婚なんです」などという人も中にはいるかもしれません。

しかし、その場合だって、ご両親や親族の「この婿・嫁ならば家にふさわしい」というお眼鏡にかなったわけですから、やはりそれは「モテ」と同義なのではないか、と思えるわけです。

浮気したご主人と、浮気されてしまった「サレ妻」の奥さん。奥さんの方は、浮気は夫の「自分はモテている」という勘違いなのだ、と「思いたい」。

ご主人の方は、たとえ、相手から「遊ばれていた」、相手の単なる「暇つぶし」や「金づる」だったにせよ、その瞬間は「モテていた」のかもしれない。

ご主人から浮気されてショックを隠せない奥様は(たいていの女性なら、ご主人が浮気していたら絶対にショックだと思いますよ!)、「夫が愛しているのは私だけ。私は夫にちゃんと尽くしているし、女としての魅力もあるし、浮気なんかされっこない」と思っていた。

そんなことを考えてみたことすら、なかったかもしれない。

浮気したご主人はどんなふうに思っていたでしょうか?相手から迫られて仕方なく?自分の男性的魅力を確かめたくて、好みの女性に自分から声をかけた…。

いずれにせよ、ご主人の浮気が遂行された、ということは、どちらかの思いがかなった、ということですよね。

ご主人と不倫相手、どちらにも不倫する気はさらさらなかったけど、いろんな偶然が重なってそういう関係になった、などということは考えにくい。

勘違いにせよ、お金目当てだったにせよ、どういう理由にせよ、「事実としてあきらかになったこと」というのは、当人同士にとってはやっぱり真実なわけです。

奥さんの方は、「本当はモテてないのに勘違いしちゃって残念」と思うことで自身を納得させている面もあるでしょう。

あるいは、「自分は夫から関心を持ってもらえている、裏切られることなんてない(モテている)とばかり思っていたけれど、実はそうでなかった、残念」という認めたくない部分もあるかもしれません。

しかし、思うのです。たとえ、「モテてないのに残念」と相手から思われていても、「自分はモテている」と思い込めた方がはるかに精神衛生のためにはよいのだ、と。

自惚れは、自分に自信を持つための特効薬です。

「自分はモテてはいるが、家庭が壊れるのは面倒くさいから浮気はしないんだ」というのがいちばん平和ですけどね!(たとえ、現実的にはまったくモテていなかったにせよ!)

「猛烈に愛されたい!」その前に…、他人を愛せますか?許せますか?

恋愛経験の少ない人や、逆に恋愛経験がいたって豊富でも、「束縛されるような愛」を理想とする人はいます。

周囲の異性に脇目も振らず、自分だけをまっすぐに愛してくれる恋人というのは、自分という存在価値を高めてくれるような気がするのかもしれませんが、現実問題としてはどうでしょう?

相手のことを好きだし、大切にしたいと思う。ましてや、他の異性に脇目をふる、なんてことは絶対にしないし、したいとも思わないけれど、趣味に没頭したり、友人たちとの時間は確保したい。

相手が、そうした時間も自分のことだけ考えて欲しい、自分のためにつかって欲しい、と言ってきたら…。

まして、やむを得ない残業中にまで、どうして連絡をくれないんだ、と恨み節だったりしたら…。

交際相手の本気度が足りない気がする、浮気しているようには見えないけど、自分といる時間以外も楽しんでいて充実している様子だ…。自分には相手しかいないのに…。

交際相手に対し、そのような不満をためている人も少なくないようですが、相手への本気度が束縛のような形であらわれるという思い込みは捨ててください。

束縛系の愛が、強い愛だと思うのはおおきな勘違いです。相手に対するつよい思いをこれでもか、と見せつけるようなやり方をするのは、むしろ、「自己愛」のつよい人間と思った方がいいでしょう。

本気の愛の証明こそが「結婚」などという、陳腐なことは言いませんが、もし、このままずっと交際をつづけようとしていて、今すぐにか、いずれかは分からないまでも「一緒に暮らしたい」というような希望を持っていたとします。

そのような相手が、自分のスケジュールを逐一確認し、仕事しているときにまで、連絡をしてこないと不満を述べるようだったら、生活のベースとなるはずの収入を得ることすら困難になりそうですし、窮屈で息がつまるような同居生活になってしまいそうです。

自分も猛烈に相手を愛するから、相手からもそのように思われて構わない、むしろ思われたい、望むところだ、などという人もいるかもしれません。

しかし、子どもが生まれれば。女性の関心はご主人より子どもの方にうつってしまうかもしれないし、長く仕事つづけていれば、やがて男女の区別なく、責任を任されるような機会も増え、仕事が面白く、収入が増えて、あらたな出会いや、趣味を見つけることもあるかもしれません。

そうした、さまざまな経験が、あなたという人間の視野を広げ、さらなる魅力を増していくことに繋がるに違いないのに、そうしたことを否定して、「自分だけを見ていて。自分だけを愛して」という相手に束縛されていたら、この先、お互いに、なんの成長も望まれません。

ただ、行き詰まる惰性的な生活がつづいていくだけです。どちらかに嫌気がさして、別れを切り出したとき、片一方がそれを受け入れなかったら…。そうした悲劇が古今東西、いくつもいくつも繰り返されてきました。

「モテ」るひとというのは、たくさんの世界を持っているものです。

真実の愛とは、相手を許し、認めること。相手を取り巻く環境すべてをひっくるめて愛するということです。

閉塞状況で、相手のことにしか関心がない。まして、相手が自分の思い通りに動くことしかか認められない、というような状況は、束縛系の愛というより、ただの支配でしかありません。

支配とは自己愛に由来するもので、相手を本当に愛しているわけではないのです。

スリムボディこそ自己管理の賜!魅力的異性からモテモテというデマ

とあるエステ会社から発信された有名な童話のプリンセスの名を冠した「身長に対する体重の基準値」というのがいっときもてはやされましたが、いま現在は一転して、非難の対象ともなっています。

身長を記入すれば、すぐさま、プリンセスの名を冠した理想の体重値が算出される早見表のようなものもネットで簡単に見つけられますが、自分で計算してみたいという人のために算出方法を記載してみますね。

身長(メートル基準にする。160cmの人なら1.6というように)×身長×20×0.9

身長160cmの人なら、1.6×16×20×0.9=46.08kgが件のプリンセス基準となります。

かつて、美しさのために理想的な「美容体重」としてもてはやされた算出式が、身長(メートル)×身長×20、160cmの人なら、51.2kg。

さらに、いちばん病気にかかりにくい数値とされる「健康体重」は、身長(メートル)×身長×22で、160cmの人なら、56.32kgとなりますから、いちばん最初に挙げたプリンセス基準の体重とは10kgものひらきが出てしまうわけです。

美容体重で最後にかけた「20」、健康体重でかけた「22」はBMI値といって、「太っているか、痩せているか」の指標となる数値です。

BMI値の算出方法は、「美容」「健康」それぞれの理想体重を求めた計算式の逆を求めます。

つまり、体重÷(身長(メートル)×身長)です。身長150cm、体重50kgの人のBMI値は22となります。

BMI値が18.5〜24.9までが適正体重(健康な人の数値)とされていますから、美容体重、まして、プリンセス基準の体重値からすれば、10kgの差があったにせよ、世間的には病気にかかりにくい、健康な体重であるとお墨付きを受けているということです。

モデルといた職種をはじめとする芸能人と呼ばれる人々のほとんどが、このプリンセスの体重値を維持し、あるいはそれよりはるかに軽いというケースも多いようです。

かつてテレビは、ひろがって見える、という認識がありました。実際の姿より横に広がって見えてしまうため、映像を離れて、実際に肉眼でテレビタレントを見ると、その多くがテレビで見るより小柄で華奢に見えたものです。

ですから、ややふくよかに感じるタレントに実際に会うと、むしろ痩せているように感じたものですが、今現在、テレビを通してみたタレントは、広がって見えるテレビに関わらず細く華奢にみえる。つまり実際に会ってみたら、驚くくらいに細いのではないでしょうか。

思春期の子どもたちの多くには、「それくらい痩せていなければ異性からモテない」という謝った認識をすり込まれてしまうに違いありません。

確かに度を超えた肥満体では、「自己管理ができていない」印象を世間からもたれてしまうこと必至ではあります。

しかし、ガリガリに痩せすぎたカラダより、ほどよく肉のついたボディの方がはるかに魅力的だと感じる人も少なくないし、世の中にはデブ専といって、太った人にしか興味を持たない人もいるので、痩せることばかりが「善」ではないのです。

昨今、欧米のファッション業界では、痩せすぎモデルを排除をするなど、この痩せ神話は崩れつつあります。

日本ではまだまだ、「痩せ願望」を持つ人が多く、さまざまなダイエット商品が世に出回っていたりもします。

「痩せれば絶対モテる」わけではなく、モテる人は、太っていたってモテるもの。無理なダイエットは肌にも健康のためにもよくありません。痩せ神話はいったん忘れてみて欲しいものです。

八方美人万歳!居場所をたくさん持つ人こそ、大勢から愛される!

多方面に対して愛想のよい人に対し、八方美人だと陰口をたたく傾向がありますが、モテる人というのは、たいてい八方美人であることが多いものです。

つよいものにはへつらい、よわいものはみくびる、そのように、接する相手によって顔やコトバを使い分ける人より、誰にでも分け隔てない対応のできる人の方が好感度が高いのはあたりまえ。

そのように、あたりまえのことすらできず、本来なら誰に対しても公平に接すべき公務員などが、権力者の顔色をうかがい、財力も地位もない弱い立場である人が、本来なら享受できるべき権利を行使できずにいるような事例に出くわすこともたびたびあります。

また、権力者の顔色をうかがう小心者に限って、誰にでも公平に接するような人を貶めたり、影で手を回して、あたりまえの正しい行為をしている人を邪魔だてするようなことも頻繁に見聞きしますと、怒りを通り越しほとほと呆れ果ててしまいますね。

自分よりすぐれた人や、多くの人から慕われるような人を妬んだり、そねんだりする人は決して少なくありません。

悔しいなら、そういう人の行為を真似て、自分も人気者になればいいのに、なんて簡単な話ではありません。

心ばえのよい人の行動を、そうではない人が真似るなんて相当ハードルが高いものなのです。プライドも邪魔するかも知れないし、さらに気の合うご同類などから、「何馬鹿なことやってんだ」と嘲笑され、仲間はずれになるかもしれません。

正しいことをして、人から慕われる人を妬み、妨害する人がいるからと言って、その行為を封印することは難しいに違いありません。

たとえ、イヤな思いをしても、自分への非難が耳に入っても、正しい行為はつづけられなければならないし、くだらない理由で邪魔してくる輩の妨害をやめさせることも難しい。

ひとつ排除できたとしても、また新たな嫌がらせの策を講じてきたり、別口の不満分子からのあらたな火種がまきおこることもあり得る。

光のある場所には必ず影がつきまとうように、それは避けられないことなのです。

あなたに対する不当な嫌がらせを避ける、あるいは、嫌がらせをせざるを得ない妬みの気持ちを薄らげる、解決法はただひとつ。多くの居場所をもつことなのです。

どんなに心地よい環境でも、恵まれた人間関係であっても、ずっとひとつところ、同じ顔ぶれでいれば、やがてよどみが生じ、息が詰まってくるものです。

そんなとき他にも居場所をつくっておくことで、新鮮な空気を吸うことができますし、ひとつの考えに捕らわれず、より柔軟な対応ができる、幅広い視野をもつということにも繋がります。

たくさんの世界に居場所を持つことで、たくさんの人から愛される機会にも恵まれるに違いありません。

また、かつての心地よい居場所にふたたび舞い戻るときにも、他の居場所でつちかってきた新たな視野、柔軟性のある幅広い考え方が、その閉鎖的だった空間に心地よい風を吹かせることにもなり、新陳代謝を生むのです。

八方美人は、けっして悪いことではありません。また、妬みそねみからあなたを攻撃してくる人の存在も、目の上のたんこぶではあるけれど、その場所を出て、他の居場所を見つける契機となり得ます。

つまり、そういったアナタに敵愾心を持つような人も多くの居場所中のひとつ、あなたが広い視野を持つために、成長を促してくれるような大切な存在ではあるわけです。

そして、あなたの持ち得た、その幅広い視野こそが、「モテ」のための大事な要素、宝物となるのです。

あなたの視野を広げるために役立つ意外なもの、…それは「絵本」!

読書時間を捻出できず読み終える自信がなかったり、活字の苦手の人なら躊躇してしまうような分厚い本をパートごとに分断。

数人で、本の一部分のみを担当して読み、内容を発表し合うことで、「分厚い本を読み終えた」達成感を得られるというユニークな読書会に参加したことがあります。

いま話題の、読み応えのありそうな本を読み終えれば満足感が得られることは間違いないし、その本の愛読者たちとの会話も弾むことでしょう。

世間一般でいう知識層の仲間入りを果たしたような気分もあるかもしれません。

しかし、私自身はその読書会に、いまひとつ、喜びを感じられませんでした。主な理由はふたつあります。

ひとつ目は、そこに集った人たちの読書体験にバラつきがあり、担当箇所の内容の理解が浅いと思われるスピーチが多かったこと。

信用の薄い他者の理解にゆだね、意味を自分で咀嚼することがなかったら、真に内容を把握したことにはならないな、と思ったのです。

もうひとつは、「偏った読書体験になってしまう」ことへの危惧でした。

読書経験の少ない人が、他者をと協力し合うことで分厚い一冊の本を読み終える。苦労もあるから、著作者の言い分をストレートに鵜呑みにする。

これこそが「すべて」で「正しい」。これさえ読んでいるから大丈夫などと安易に考えることに繋がりかねない、と思ったのでした。

読書とは、ひとつの事柄に対しての視野を広げたり、多様な見方を知るということがひとつの目的なのではないでしょうか。

もっと異なる意見はないか?とか、自分だったらどう考えるか、自身に生じた疑問点を意識することもないままの読書は、帯を読んだだけで内容が分かった気になって、得意げに世間に吹聴するのと大差ない気がします。

自分の人生を変えてしまうような衝撃的な一冊との出会い、著作者に大いに触発されるような、強烈な読書体験があっても、もちろんいいと思いますよ。

しかし、この読書会のように分断箇所を流し読みし、同じように流し読みした相手の理解に、本の内容理解を委ねてしまうことは、言い方は悪いかも知れませんが、あまりに「薄っぺらな読書」の気がするのです。

そして、さらに作者の意見をなんの疑問もなく素直に受け取り、その思想を受け入れるのは、日頃、いくら本を読まないと言っても、あまりに無防備過ぎ、けっして「よい読書体験」と言えないのではないか、と思うのです。

活字を読むのがあまり得意でない人に、ぜひオススメしたいジャンルの本があります。これらなら、活字を読むことにさほど脳みそをつかわなくても、時間が少ししかなくても、多様な価値観、幅広い視野をどんどん吸収することができます。

そんな素晴らしいジャンルの本とは、「絵本」のことです。日頃、本屋や図書館に行く機会のない人、五分でいいです。児童書コーナーに足を踏み入れ、その種類の多さに圧倒されてみてください。

そして、その数多い種類の中から、自身のインスピレーションで「これ」と閃いた一冊の本を手に取って、パラパラとめくってみてください。

「つまらない」「取るに足らない単なる子どもの本」だと思うかも知れません。

しかし、なぜだか分からないけど涙が止まらなくなったり、心があったかくなったり、あるいはずっと抱えていたあなたのトラブル解決のヒントを得たり…、そんな素敵な絵本との出会いがきっとあります。

身近なモテる人に聞いてみてください。モテる人ほど「スペシャルな一冊」を持っています。

分厚い一冊の本を読むよりたくさんの絵本を読むことで視野が広がり、「モテ」に繋がること間違いなし!

人気有名人とあなたの違いなんてものは実際には「僅差」に過ぎない!

いま世間的に話題になっている、人気のある芸能人とあなたとの違いはなんでしょう?

「顔もスタイルもいい!歌やダンスがうまいし、演技も素晴らしい。運動能力も高い。なにひとつ、自分が勝っているところなんかない」

存在自体が別世界のひと。平凡なじぶんとくらべるなんておこがましい!そんなふうに考えられるでしょうか。

戦後まもない日本人に夢や希望を与えた銀幕(映画スクリーン)の中の俳優・女優たちは当時スター、と呼ばれ、夜空に瞬く星にもたとえられ、我々一般市民の手には届かない存在だと思われていました。

お茶の間にテレビが普及するようになり、芸能人は憧れではありつつ、一般市民にとっても、グッと身近な存在になりました。

「そこらへんの、どこにでもいそうな若者、ちょっとかわいいだけの女の子に熱を上げてキャーキャー言うなんて…」とかつての「銀幕のスター」であった芸能人たちを懐かしむ声もありましたが、平成になると、「誰でも気軽に会いに行けるアイドル」がコンセプトになるなど、芸能人は、より近しい、親しみやすい存在へと変化していきました。

どんなに手を伸ばしても絶対に手に届かない、夜空の星ほど遠い憧れの対象であった「スター」から、ある程度の条件(関連グッズを購入するなど)を見たせば、気軽に手を触れる(握手してもらえる)ことのできる身近なアイドル。

実際、アイドルの身につけているものが若者たちの間でブームになることは過去何度もありました。

もちろん、手に届かぬ存在であった銀幕のスターの時代にも、着こなしや髪型が若い世代を中心にブームを巻き起こすことは何度もありました。

「昭和の銀幕スター」「平成のお茶の間アイドル」、そのどちらにも熱烈な支持者・崇拝者がおり、関連グッズにお金をつぎ込んだり、映画やステージを見に行ったり、特集記事の掲載された雑誌や、写真集を購入したりするファンが続出しました。

もっと言えば、江戸の時代にも、歌舞伎役者や相撲取りなど人気者の「姿絵」(似顔絵イラストですね)が昭和の世で言う「ブロマイド」の役割を果たしていたのですから、ここ100年、いやそれ以上の長きにわたり、なにかに憧れる人間の姿というのは変わらないのかも知れません。

崇拝や憧れ、というのは自分とかけ離れているからこそ、生じる感情ですが、「アイドルやスポーツ選手の活躍を自身の娘や息子の成長を見守るかのように応援する」というものや、「彼らがひたむきに頑張る姿に自分自身を投影する」といった形のものもあります。

肉親や、自分自身を重ねてみるほど、距離感の近いファン意識。となれば、有名人・芸能人はもう、手の届かない存在ではまったくありません。

かつての銀幕のスターだって、ダンスや歌唱、さらにトークに長けた平成のアイドルだって、広く公共に認知される前は、我々と変わらぬ一般人であったわけです。

ステージや、テレビのスタジオを離れれば、食事もすれば買い物もする、お風呂に入ればトイレにも行く、「ただの人間」なのです。

「オーラ」というコトバがありますが、芸能人は売れて、世間に注目されるようになることで洗練され、「オーラ」を纏うようになる。

「いや、一般人であったときから、すでに他人とは違っていた」などと、生まれながら特別だと思われる人も中にはいるのかもしれませんが、たいていの芸能人は、「大勢の人の目に日夜晒されることによって」立ち居振る舞いや、ファッションを意識し、その「有名人としての特別感」を獲得、構築していくのではないか、と思うのです。

言うなれば、我々一般人と芸能人・有名人の違いなど僅差。一般市民の我々だってちょっと意識するだけで、「特別な人間」になれるのです!

キャッチボールができない会話はたとえ饒舌でもただのひとりごと

テレアポ(テレフォンアポインター)という仕事があります。商品やサービスについて電話で案内・紹介し、購入やサービス利用を促す業務です。

購入者やサービスへの加入者を獲得するために、商品の特性やサービスの内容を熟知していることはもちろんですが、成績のよいテレアポの人に共通するのは、聞き上手であるということです。

聞き上手?話し上手ではなくて?そのような疑問を持った方もすくなくないかもしれません。

商品やサービスを売り込むのに、ただ聞いてばかりでは話にならないのでは?
やはり、相手に有無を言わすことなく、立て板に水でスラスラと淀みなく商品やサービスの特性を紹介、案内することができて、相手を納得させ、購入かサービス利用につなげていくのがまっとうな道筋じゃないの?と。

「話し上手」と聞いてあなたが思い浮かべるのは、やはり、そのような人でしょうか?人を飽きさせない、途切れないマシンガントークで周囲の人々を圧倒させるような人。

しかし、そのような人がテレアポの仕事をしても、おそらく成績にはつながらないというのが実情なのです。

選挙のシーズンになると駅前などに立候補者が辻立ちし、演説をしている姿が良く見受けられます。立ち止まって聞いているのは、大方その人自身か、その人の属する政党の支持者です。

ごく稀に声のトーンや内容に、興味を持ち、立ち止まる人もいますが、たいていは声を枯らせて喋りつづけたところで、本人か、本人の属する政党になんのシンパシーも感じない人には素通りされてしまうのが関の山。

大がかりなショーとして「一方通行の喋り」、すなわち対観客にトークライブを成立させるような人も同様に、まず、その大多数の観客が「話し手」のファンであることが大前提です。

その人の話術が本当に素晴らしかったとしても、マイクを通し、大勢のその人をまったく知らぬ聴衆の前で、ほとんどの人には、今どんな人がマイクを握って話しているのか、その姿を確認することもないまま、話すとしたら、その魅力はおそらく半減。あるいはそれ以下も伝わらないかも知れません。

もし、もっと規模を狭め、相手がせめて話し手の顔を確認できるくらいの近距離で、一対一で話しているときのように声を出して相づちを打ったり、「どういう意味?」と疑問点に対し即座に質問できなかったにせよ。

話に耳を傾けている人の表情やリアクションを見ることができたら、そのトークはグッと親しみを増し、周囲の人にとって興味深いものになるに違いありません。

それこそが「聞き上手」の態度です。最初に述べたテレアポの資質として重要なものです。

自分が伝えたいこと、つまりテレアポの場合なら、売りこみたい商品や、加入して欲しいサービスのことですが、それを伝える前に、まず相手のことを知る。そのために相手の話をじっくり聞く。

相手から話を引き出すことができたら、どのような伝え方が伝わりやすいか、相手のコトバから伺い知ることもできるはず。

テレアポではなく、「興味を惹きたい相手」として置き換えてみることもできます。相手の反応もそこそこに、自分のペースで話したいことだけガンガン喋る。

それは会話ではなく、ただの独白、ひとりごとです。相手に「楽しく会話した」と思ってもらうためには、「相手にたくさん話させる」。遮ることなく、ひたすら興味深い表情で聞くのがベスト。

相手が「ああ、会話が楽しかった」と思うのは、話を一方的に聞かされているときではなく、「相手が話を興味深く聞いてくれた」ときなのです。

モテる人、というのは、たいていが「聞き上手」。つまり成績優秀なテレアポさんと一緒なんです。

モテたいと思う人、トーク技術を磨くより、まずは聞き上手になることですよ。